2023年を振り返る 注目トピック8選 ⑧昨年旅立った空の達人

2023年に旅立った、日本の空の達人

2023年、日本のスカイスポーツ界の発展に大きく貢献し、多くのフライヤーに影響を与えてきた峰岸正弘さんが亡くなりました。この記事では、故人と親交の深かった板垣直樹さん(nasa代表)、そして峰岸さんの奥様である峰岸喜久代さんのコメントと共に、その活躍と功績、お人柄を振り返りたいと思います。
改めて心よりご冥福と、向こうの世界で翼を広げ、空高く飛んでいることをお祈りいたします。

峰岸さんへ ― 板垣直樹(nasa代表)

3~4年くらい前でしたっけ?峰岸さんが朝霧に何回か飛ぶのを見に行ってるらしい! 十数年ぶりにパラグライダー復活するらしいって噂が聞こえ始めたのは。
その時に真っ先に思ったのは足尾に飛びに来ないといいな! でした。

ハングの日本選手権者に三度、パラの世界記録を出したり、この世界から引退した後にいきなりヨットを始め、アメリカで買ったヨットで一人で太平洋横断して帰ってくるとかする人だから、当然、パラに復活すれば足尾にクロカンの記録を狙いに来るんじゃないかと思っていましたよ。

俺が競技を始めた頃はすでに今嶋さんと並んで峰岸さんはハング界トップクラスの選手でした。あなたは他の参加選手とは一線を画し、「競技を楽しむ」という雰囲気は一切なく、勝つために徹底していましたね。若手選手だけでなく中堅の選手すら近寄りがたい雰囲気を持っていました。一方、俺は競技の飛びができず、なかなか上位に入ることもできませんでした。テイクオフやランディングは俺の方が遥かに上手いのに、レースではまったく歯が立たず、若かったこともあり峰岸さんのことが本当に嫌いでした。
国内の大会の時やオーストラリアの世界選手権なんかで何回か喧嘩もしましたね…。

パラに復活し、朝霧で飛び始めてすぐ次の春には足尾の会員になりたいと来たときは正直、ちょっと面倒くさいな!って思いましたよ。何しろ空中に飛び出せば上手いけどテイクオフとランディングは相変わらず下手でしたから。
それでもやっぱり真面目にしっかりと目標をもって飛んでいましたね。

クロカンの記録を出す! という信念で平日でも条件の良さそうな日には一人で来て他に誰も出なくても一人で飛んでいく。回収も無く降りたら一人で電車やバス、タクシーを使って帰ってくる。昔と変わらない情熱で真摯に飛んでいました。

夜遅くに水戸線の羽黒駅に何回か迎えに行きましたね。去年の春の迎えの時は、遅くなったので俺は家に一度帰り晩飯食った後に駅に行きましたよね。
覚えてますか? 帰りの車の中でお互いの子供の話をしましたね。あぁ、この人とお互いの子供の話をするようになったか!ってことが信じらられないような、でもやっぱり昔からのハングの仲間なんだなっと懐かしいような不思議な感覚でした。

機会があったら一緒にパラでクロカンで飛びたかったです。もう叶わない夢となってしまいました。
ご冥福をお祈りします。

写真提供:峰岸喜久代

峰岸 正弘
1955年生まれ、享年68歳
日本のスカイスポーツ黎明期からハンググライダー、パラグライダーの国内外大会で活躍。日本選手権優勝は3回。1985~2001年までに日本代表としてハンググライディング世界選手権に8回出場。個人最高位は1993年のアメリカ・オーウェンスバレーでの20位。
パラグライダーでは1992年に南アフリカで264.2kmをフライトし、直線飛行で世界記録を樹立。また同フライトで松尾悦志選手とともに183.7kmのゴールフライト世界記録も樹立した。2023年7月、アヌシーでのフライト中の事故により逝去。

峰岸正弘について ― 峰岸喜久代

あまりにも突然で信じがたく、あまりにも大きな衝撃で。冷静でいられた気もするし、そうでなかった気もする。半年以上経過しても変わらない。とにかく、帰ってこなかった。

教養が高く勇敢で豪快、器用で何をやっても軽く人並み以上にやってのける。私にとって峰岸正弘は他に類をみないユニークな存在だった。この貴重な機会にパラワールドという場で、ハングやパラで活躍していた頃の本人をリアルタイムでは全く知らない私が一体何を書くべきか迷ったが、勝手ながら直近の十数年にわたり私に自由と機会をくれたことへの深い感謝と共に、最大限の敬意を表す場とさせていただきたい。

本人は2007~2008年、単身ヨットでフロリダからパナマ経由で日本まで航海。帰国後2011年に娘が生まれると、母親の私は育児休暇1か月で仕事に復帰。以降、実質的に洗濯とゴミ出し以外の家事・育児全般を引き受けてくれた。私が徐々にそれら全てを押し付けたと言った方がいいかもしれない。娘が幼稚園の頃、父の日と母の日の手紙は「お父さん、毎日ご飯を作ってくれてありがとう」「お母さん、お仕事ありがとう」。本人自身、ギターの練習に加えダイビングやライフル射撃、ハーレーでのツーリングと常に色々な事にチャレンジしつつも、娘の習い事の手配や送迎、時には自ら練習して水泳やピアノを娘に教え、百人一首を覚えて対戦し、と大半の時間を家事と育児に費やしてくれた。そして、その間、たとえ周囲が全員お母さんの中でたった一人だけ(しかも高齢の!)お父さんでも一度たりとも不平不満を口にしなかったのは、さすが固定概念にとらわれることのない柔軟さを具えた人間だけあった。この十数年間、私が思う存分仕事に集中し、好き勝手に国内外を飛び回り様々な国々で多くの人々に出会い貴重な経験を得られたのは、そんな夫でありお父さんであった峰岸正弘の存在があってこそ。私と娘は、大きな愛情の中で不安も不自由も何一つなく楽しく暮らし、そろそろ自由な時間を返す時期がきていた。

結婚後もうすぐ20年が経過するところだった。一緒に過ごした時間は期待したほど長くはなかったが、時間の長短の問題でもないだろう。尊敬してやまない人間と共に家族として時間を過ごすことができたことは、これ以上にない幸せであり深く感謝している。最期はとても美しくにこやかで優しい笑顔だったお父さん。私がいるから何も心配はしていないはず。もう一度パラグライダーで何をやりたかったのか分からないけれど、いつも何事にも真摯に取り組んできたから、最愛の娘と飲み歩けなかったこと以外は概ねやり残したことはないのではないだろうか。お父さん、あの子が大きくなるまでは待っていてね。そのうち行くから!

峰岸正弘は多くの方々のサポートを得ながらまたとない大変貴重な機会に恵まれ、持ち前の力を発揮することができた。末筆ながら本人に代わり心より御礼申し上げる。

写真提供:峰岸喜久代 撮影:阿施光南

 

なお、日本のパラグライダー界全体の発展に大きく貢献し、多くのフライヤーに特に影響を与えてきた方として文字英彰さんの名前も挙げられますが、諸事情により今回はここで、心からの感謝の意を表するに留めさせていただきます。

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